春の日の記憶

「ときめく心も、君へのドキドキも、全部準備できました。」

自己肯定感

 

 

なんとなく、書いておかないと忘れてしまいそうだからここに残す。いつもそうだけど。

 

最近、友達と揉め事というか、喧嘩をして。そのまま別れた。あれから2週間くらいたつけど、私からは連絡してないし、あの子から連絡はない。

詳細は省くとして、話していて埒が明かなかった。元々自己肯定感が低いというか、なんでそんな寂しいこと言うの~っていう子だったけど、大事な友達だから、その都度そうやって笑いながら突っ込んで、過ごして。頻繁に連絡を取っていたわけではないけど(あっちの返信がだいぶ遅いのもあったけど)、きっとこの先の人生で何か節目があるたびに連絡するだろうなって、当たり前に思っていた。大人になって、おばさんになって、あの時さ~って、思い返してくだらない話するんだろうなって。

 

友達とあんな口論になったの初めてすぎて、22歳になって、まさかすぎたけど。でも皮肉だったのは、そうやって喧嘩して私が家を飛び出しても、たとえ朝の3時でも「ウチ来ていいよ!」って言ってくれる他の友だちがいたことだ。次の日には飲みながら私が泣いても笑って慰めて話聞いてくれて、笑わせてくれる友達がいることだ。

あの子にはいるのだろうか。私が高校時代最後の友だちだと言っていたあの子には。

 

私も、彼女にとってそんな人でありたかった。でも、私がこれ以上彼女にやってあげらえれることがあったかと言われると、正直もうないと思った。

怒りがだいぶ収まってから、浮き出て来たのはなぜか虚しさと少しの罪悪感だった。あそこまで冷たくすることなかったのかもしれないけど、ああいう発言を私が身をもって受け止めるのは、あれ以上は苦痛だった。あれ以上に行くと、私がつらい。

 

 

小さい頃は、私は自己肯定感が低い子だと思ってた。可愛くないし、勉強は多少できるけど、運動もそんな出来ないし、って。わりと人よりそこに気づいたのは早かったような気がする。

そうやって思春期を過ごして、高校生になって、色んな友達が出来て、だいぶ変わった。いい子でいる必要ってないんだなって。そして大学生になって、自分だけを考えることができる生活が続いて、自分を大事にすることができるようになった。

私は私が一番大事、色んなドラマや映画を通してそういう感情を学んで、知って、色んなアイドルや歌手が、時に自己愛について語るツイートをいいねできるようになった。

 

そうやって、20年間かけて、私は私を好きでいれるようになった。

恋愛的な意味で、他人が私を好きになるかどうかは正直今でも分からないけど、私が私を大事にできるように、私を大事にしてくれる友達を、私は大事にしたいと思えるようになった。

今回、彼女を見ていて思ったのは、もし私がそれが出来なかったら、彼女みたいな姿になって、他の人からそう見えていたのだろうかということだ。

むなしかった。怖いと感じた。

 

そうやって人と比較して、自分を高めているのもなかなかひどいとは思うんだけど、それでも、怒りが収まって、そう思ってしまった。

自意識過剰であることと、自己愛が強いことは別物なんだなって。

 

 

まだこうやって文字に起こしてみると、思考がかなりごちゃごちゃして、混乱しているんだと思う。でも、ただ唯一、心に決めたことは、そうやって私を迎えてくれる友達を、隣で話を聞いてくれる友達を一生大切にしたいということだった。

そこにいたはずの彼女が、また戻ってくるのか、もう二度と帰ってこないのかは分からないけど。

私は私を大事にしてくれる友達を大事にしたい。大事にしてくれた分、その分返したい。それでいいんだと思う。

こういう結果になって、たとえ最後にむなしくなっても、それが自分を大切にして生きる選択肢の一つだと思うしかない。私はやっぱり、私がいちばん大事だから。

 

 

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なんだか傷ついた時、どうしてか気分が落ち込んでしまう時、尾崎聞けばふわっと心が軽くなる。正しいものがわからなくても、街並みの中で、そうやって許しながら生きていくことは悪いことじゃないよね。